Yuimetalさんの脱退とアドレッセンスの戦い

昨年、つまり2018年の10月、世界中のBabymetalファンは半ば予想しながらいざそれが現実になるとどうしようもない喪失感に襲われてどうしていいかわからない状況に陥った。その余波はまだ続いていると思う。Yuimetalさんの脱退は、既に世界的に定着していたグループのイメージに強烈なダメージを与え、順風満帆だったBabymetalの行く手に大きな影を落とすことになった。多くの人は、三人のキャラクターの奇跡的な調和が核になって無限の魅力をふりまいていたマジックの終焉を苦い思いとともに認めざるを得なかったはずだ。

なぜ、このようなことになったのだろうか。所属芸能事務所の発表やウェブサイトに掲載された水野由結さんのコメントなどを読んでも本当の事情はわからない。嘘ではないのかもしれないが、ありのままに語られているとも思えない。

思えば、この状況は、大成功に終わった東京ドーム2Daysの2日目、いつもなら次の挑戦がドラマチックに告げられる終演後のモニターにただ「続く」とだけ表示された時にはすでに始まっていたのではないだろうか。ワーナー・ブラザースのアニメの企画や次々に出てきた大物バンドの前座公演などは、それまで着実にステップアップしてきたグループの歴史を次のステージに進める重要なものだったはずだが、発表のされ方は随分とそっけなかった。神バンドのメンバーはBabymetalについて語らなくなり、インタビューもドームの総括以降まともなものは出なくなった。水面下では独自レーベルの立ち上げとレコード会社の移籍をはじめとする海外展開の準備が進展していたはずだが、もしも既にその時にYuimetalさんから「Babymetal以降」についての希望が表明されていたとしたらどうだろう。そう考えるとあんなに鮮やかなシナリオの元に世界征服のストーリーを紡ぎ続けてきたグループが急速にブレーキを踏んだかのように勢いを落とし停滞していった理由も少しは想像がつく。

もちろんこんなことは全くの憶測に過ぎないのだけど、元々さくら学院のサブプロジェクトとして始まったこのグループの活動プランは、東京ドームへ至る挑戦のシナリオまでしか練り上げられていなかったのではないだろうか。あるいはその次のプランがすでにあったとしても3人が合意したものにはなっていなかったのではないだろうか。それなりの覚悟をしてBabymetalの活動に取り組んでいたと思われるSu-metalさんや、世界的なスターになった状況に納得し、これからの挑戦を受け入れることに躊躇がなかったであろうMoametalさんとは異なり、どちらかというと音楽を自分の仕事のメインとは捉えられなかったであろうYuimetalさんは、高校卒業までの期間をBabymetalに捧げて東京ドームのコンサートで一区切りつけた後、女優やテレビタレントとしても活動していく将来を描いていたのではないだろうか。Babymetalには、最初から「期間限定」の性格があった。「その後」について思春期の少女が夢を膨らませていたとしても何も不思議ではない。

通常のアイドルビジネスなら、タレントや女優として各種媒体への露出を競いながらすでに確立している市場の中でのシェア拡大を図る既定のコースがある。もちろん、そこは熾烈な競争のレッドオーシャンだ。芸能界に回る金には限界があり、相互に食い合っている中にどう割り込んでいくかというハードなビジネスが待っている。しかも、彼女たちが何を選択するにせよあまり目新しいことのない世界だというようにも思える。しかもそれは悲しいほど日本ローカルでしか通用しない約束ごとであふれ返った世界だ。しかも、場合によっては、それらは女性蔑視を根底に隠している。

Babymetalの切り開いた場所はそうしたこととあまり関係のない未知の魅力に満ちている。名前はすでにワールドワイドに広まっており、コンテンツもワールドクラスであることについてはプロ、アマ問わず様々な人からのサポートがある。他に並ぶもののないユニークな存在であることは市場が認め、恐らくは当初の想定以上に成功していたのだ。女性の関わるプロジェクトとしては、あらゆる面でスマートに考え尽くされており、時代の要請にも合致している。これをこのまま捨てることは普通だったら考えないだろう。会社にとっては、西欧の市場で一流のアーティストを擁するようになることは目標の一つだろうし、マジソンスクエアガーデンを満員にしてコンサートができるアーティストを生み出すことは創始者の夢でもある。国内のそこそこ大きくても世界と比べればニッチでしかもやや「キモい」アイドル市場とそれをとりまく旧態依然として予定調和的な馴れ合いに満ちた芸能メディアの中で生きていくのと比べれば、当人たちにとっても、世界的なアーティストとして認知され、日本国内にとどまらない活躍の場を持つことができるまたとない機会だ。誰も文句はないはずだ。次は少女期から脱したメンバー達が大人のアーティストとして成長したところを見せ、世界各地を回り、アリーナクラスの会場を満員にし、最終的にマジソン・スクエア・ガーデンまで行き着きたい。2015年から2016年までのこのグループの勢いを見ていればそう考えるのが当然で、国内の露出が減るとか、バラエティ番組やCMに出ないことで認知度が下がるとか、音楽番組に出ないのでCD売り上げが伸びないなどということはどちらかと言えば二義的なことだったには違いない。

同時にその頃のBabymetalは、少女期を終えて以降のグループをどうしていくのかというもう一つの大きな課題を抱えていたはずだ。メンバーが小・中学生だった時に作られた楽曲、振り付け、歌詞は、10代のアイドルを前提として考えられていて、これから成人し大人になっていくに連れてそれまでどおりの演出でライブをやり続けていくのは急速に難しくなる。本格的に世界進出していくには、もうすぐ訪れる元々のバンドの企画意図そのものに含まれていた限界点を除去してグルーブを生まれ変わらせなければならなかったはずだ。もしそうしなかったならば、ファンから飽きられるだけでなく、日本の奇妙なものといういつものニッチ領域に整理されて終わってしまうだろう。それでは、長期のビジネスプランも立てられず、大きな投資判断もできない。

既に明らかになったように、その重要な転換点で、プロデューサーのKobametalさんは、それまでの「カワイイ」というコンセプトをあっさり捨てた。そのかわりもうひとつのバンドのテーマ「メタル」をさらに推し進めることにしたのだ。

それまでのBabymetalの楽曲は、少女時代のお遊びの側面を残しつつ、思春期から青年期の過渡期にある少女たちの日常や日々の戦いに焦点を当てて作られていて、三人の実生活と重ね合わせて見ることができるものだった。しかし、同時に、Babymetalのコンセプトは、等身大の自分に止まるのでなく、全力でそれを乗り越えていこうとするモチーフで貫かれている。ちょうど高校野球に大人も熱狂するのと同じで、その戦う姿こそが、世代を超えた共感を得ることができたいちばん大きな理由だと思う。本気で戦いの場に挑むようにしてステージにあがるからこそ、BabymetalのライブはCDとはまるで違うと参加した人々が絶賛するのだ。Babymetal にとって、その挑戦し続ける姿勢はメタル・グループとしてのアイデンティティであり、それを失なうことは、グループとしてのアイデンティティの喪失をも意味すると考えられた。

Babymetalというプロジェクトは、アイドルのカテゴリーから出発しながらも、アイドルらしい世界とはあまり関係しないまま、すでに世界市場に手をかけていたし、ヘビーメタルというこれも小さい市場を取っ掛かりとしながらも、メインストリームに打って出られるポピュラリティを獲得していた。仮に各国でトップ10に入るか入らないかくらいの存在であっても、世界中全部合わせれば日本のどのグループよりも世界で知られる存在になることができる。そちらの方が価値があるとBabymetalチームは考えたのではないか。そして、それは中元すず香という稀代のヴォーカリストを擁すればこそ、半ば義務であるとさえ考えられていたはずだ。

Kobametalさんが用意した新しい戦いは、もう思春期の戦いではない。立派に成人した大人の女性の戦いだ。Babymetalは、昨年、それまでのキャッチフレーズだったKawaii Metalという言葉を使うのをやめている。衣装、メイク、ヘアスタイルからもそうした要素は徹底的に排除された。これは、Legend-Sから始まった死と再生の物語だからである。グループを生まれ変わらせるために、一度ダークサイドをくぐらせる必要があった。3人の少女期の終わりとともに、新たな挑戦の対象を明確にし、次の戦いのステージを用意するためだ。年齢相応の戦いを、そして、それに見合った音楽を。

一昨年暮れにSu-metalさんの成人を記念して行われたLegend-Sは、そのあたりがよくわかるディレクションがなされていたと思う。QueenからGoddessへという主に西欧のファンが使っていたSu-Metalさんに対する敬称を用いたテーマ設定とともに、Babymetalにとって少女時代が終わり、新たなステージが始まるのだということがよく表現されていたと思う。それは、Babymetalはまだ続く、大人になってもまだ続くのだということを広く宣言する儀式でもあった。そして、それはそのまま昨年のダークサイドへのイントロでもあった。

そこでは少女たちはもう少女でいられないことを思い知らされなければならないし、それに打ち勝って大人のアーティストとしての姿を勝ちとらなければならない。

昨年のツアーの評判を見る限り、ファンは戸惑いながらも変化を受け入れ始めているし、はじめにダークサイドに思い切り振り切ったことで、今後現れてくる新しい変化を歓迎する素地は十分に作られたように思える。ライブのみで披露された新曲はまだ発展途上に思えたが、 “DIstortion” や “Starlight” の出来は悪くなかったしSu-metalさんの歌唱もより進化した。

昨年のコンサートの時間がどれも短く、披露される曲のバリエーションも限られていたのは、Yuimetalさんの不在やギタリストの藤岡さんの死去も原因の一つだろうが、それよりも、元々少女期に焦点を当てた楽曲、「ド・キ・ド・キ☆モーニング」や「Catch me if you can」、「ウ・キ・ウ・キ★ミッドナイト」のような曲はもう(少なくとも昨年は)やらないと決めたことが大きいのだろうと思う。少女期固有の無制限のパワーに依存したBabymetalのこれまでのあり方に変化をもたらして新しい世界に歩みを進めるために、初期の Babymetalを世界に知らしめた「Kawaii」の露出を抑制して新しいバンドのイメージを模索する行程をたどり始めたのだ。元より一定数のファンが離れていくリスクは想定されていたはずだ。しかし、何よりも先に進むことをチームとして選択したということだと思う。全体としては、この大胆な変化を力技で押し切ったように思えたし、あとは Yuimtal さんの復帰を待つだけだ。そう昨年のStarlightの発表の時には思えたものだ。

Babymetalのきらめきは、少女たちの持つピュアでキュートなキャラクターの奇跡的なバランスと少女期の無制限なエネルギーの躍動をベースにした圧倒的なパフォーマンスによるものだ。過去のメタル音楽を引用しつつそれを再定義して生き返らせる馬鹿みたいに完成度が高い楽曲、その高度な曲をこともなげに形にする凄腕バンドマンによる演奏、グループに関わる大人たちが遊び半分で仕込んだ様々なオマージュやユーモアたっぷりの演出等々がそれを支えているのは確かだとしても、3人の魅力こそが本質であるのに疑いはない。

また、このグループの楽曲には一般的なアイドル歌手に見られるような制作スタイルは見られない。今度はこういうイメージでやってみよう、などというトップダウンの制作方法ではなく、少女たちはありのままに、制作側もやりたいことをやりたいようにやって結合させた結果としか思えない自由な雰囲気が一貫して漂っている。しかも、このグループに関わる人々のスキルミックスとそれによる全体の仕上がりの高水準さは群を抜いている。この自由でハイレベルでスマートな人を食った感じが特に長年ロック音楽に親しんできた人々を惹きつけているもうひとつの要素だ。Babymetalに往年のロックファンが見出しているのは、自ら自分の足で立とうとし、そのためには理不尽な抑圧には徹底的に対抗し自我を貫く魂だと言っていいと思う。それってロックスピリットそのものじゃん。それを成り立たせていた3人の関係は、絶対的なものだった。誰が抜けても、まるで神によって絶妙にチューニングされたかのようなそのバランスは崩れてしまう。

急速にグループが成長し、海外に向けて動き出している流れの中で、小さな頃から業界にいて、恐らくはビジネス面の苦労も想像くらいできるであろうYuimetalさんが、自分の将来像が周囲の期待に応えられないものだと悟った時どれだけ苦しんだかは推し量るほかない。自分の我を通すことでグループは崩壊してしまうかもしれないのだから。おそらくは、そうした葛藤の中、Yuimetalさんは自分の夢を抱いたまま高校を卒業するまではBabymetalにいるということだけを約束したのだと思う。まだ未成年でもあり、ご両親の影響も少なからずあったかもしれない。瓢箪から駒のような展開で流れに押し流されたまま娘が自分の夢と異なる道に進んで、このままヘビーメタルバンドの一員になっていくのは、もしそれが当人の夢と重ならないのなら私がYuimetalさんの親だったとしてもあまり快く思わなかったかもしれないとは思う。つまるところ、高校卒業に際して進路を最終的に決める大切な時期に、高校卒業を期にBabymetalの卒業ないし、それ以外の活動への展開も希望していた水野さん(あるいはご両親)と、高校卒業後は3人をBabymetalに専念させて米国中心に世界展開をはかりたいアミューズのプランとが衝突したままどちらも譲れないという状態のままどちらも譲歩できなかったのではないだろうか。

Yuimetal さんは、その世界的スターへのほぼ約束された道に進むことを躊躇った。タレントや女優としての道を残したかったのだと思う。アニメの頓挫、アパレル展開の遅れ、メンバーの出ていないミュージックビデオ、せっかくレーベルを立ち上げてもニューアルバムが発表されない、等々、我々の目に停滞として映ったものは、海外展開のビジネスのどれについてもYuimetal さんだけがコミットしていなかったと考えると全て辻褄が合う。三人が主人公になっているグラフィックノベルは三人の生身の姿、声とは無関係だからこそYuimetalさんが戻ってくるのを待つ間も進めることができた。しかし、彼女の姿、声が必要なアニメ、アパレルの宣伝、アルバムは先に進めることができずに全て保留されたのではないかと思う。Babymetalの前進に不可欠な通過儀礼の場にも、偶然か自らの意思によってかその両方なのか、Yuimetal さんは来られなかった。健康については回復しているという昨年のアミューズ株主総会での重役の発言を信じるなら、Legend-S以降のどこかの時点で、Yuimetalさんに何らかの状況変化があったことになる。この変化は、Yuimetalさんの高校卒業を挟んで生じており、一般的に言っても将来の進路を決める時期に当たる。高校卒業以降については、Babymetalとしての特に海外向けの活動についてはこうした状況のために一旦保留にされたと考えれば、あらゆるちぐはぐな出来事が腑に落ちるのだ。もちろんアミューズはYuimetalさんの価値を熟知しているから最大限慰留に務めたはずだ。脱退することを半分の選択肢として、ドーム前からくすぶっていた問題に決着をつけるべく話し合いを続けた結果、破談になったと、簡単にまとめればそういうことなのだと思う。もちろん取り沙汰されている健康問題やそれ以外の理由があったのかもしれないが、確かなのは水野さんが、Babymetalを抜ける選択をしたということだ。水野さんの脱退公表時に、知人、友人、関係者の口が一斉に閉じていたのはこの交渉がかなりタフなものだったことも示唆している。

こんな話は、ファンであってもなくてもまあどうでもいいことかもしれない。何もかも僕の推測に過ぎないし、本当のことは結局分からないからだ。しかし、一人のファンとしてこの一連の出来事を追いかけていて、僕はどうしても日本に暮らす若者の置かれたとても困難な状況を思わざるを得なかったのだ。

国内の産業は、僕が大学を出た頃とは反対に全体として緩やかに(部分的には急激に)衰退に向かっている。30年くらい前は、日本は非常に高揚していたし、誰もが自信を持って生きているようなところがあった。一億総中流というのがリアリティを持って語られていた時代だ。元気のいい企業はたくさんあって、まだ企業の終身雇用やそれに基づいた出世、結婚、家、子供、車、レジャーや余暇の過ごし方、福祉制度など(今まさに昭和的と呼ばれているもの)が力を持っていた。就職先にも事欠かかなかった。ほとんどの日本企業はこの頃と比べて誰の目にも元気を失って小さくなっている。もちろん、これは企業だけではない。日本全体に、大きな夢ではなく小さな自分の手の届く夢を追いかけるような生き方が広がって、誰もが誰にも干渉されない自分の領域を大切にするようになった。海外にも出て行かなくなった。賃金は過去30年くらい足踏みしていて、実質的に下がっている。金がなくて何もできないのに、社会保険料は上がり、税金も遠慮なく取られるようになった。それに追い打ちをかけるように、働き方改革とやらで残業をしない生き方が推奨されて、企業は残業に強い制限をかけるようになった。若いサラリーパーソンが、元々安い給料に残業代を加えることで余裕を生み出していた家計は、本当に苦しくなっていると思う。

いい話なんかどこにもない。海外に出て行く元気のない若者たちは、静かにこの衰退の時代をやり過ごすために必要以上に自分の負担を増やさないように注意深く生きているように思える。外務省の職員が海外に行きたがらないという話を読んで驚愕したのは、ここ数年のことだ。しかし、そのようにして守ろうとしている日本語圏内の既存の小さな世界は次々に崩壊していく危機にある。出版業は、電子書籍の波にひとまず均衡をとるべくがんばっているように見えるが、ネット販売の広がりで小売店舗はどんどん縮小していっている。雑誌はそれでもまだたくさん発行されているが、元々そんなに部数の出ない堅い雑誌はこれまで通りのやり方を続けていたらもうもたないだろう。音楽業界は世界的にストリーミングの影響でレコード会社は打撃を受けている。国内は世界に比べるとまだCD販売が残っているが、若い世代はもうCDは買ってない。車、スキー、海外旅行、ゴルフ、みんな右肩下りだ。誰もが同じことをやらなくなった。選択されるものの幅はむしろ広がっているが、どれもこれも小さな差異に価値を見出し世界に広がるよりは仲間内に閉じていく縮退のプロセスにいるかのようだ。バブルの頃に世界的に存在感を誇っていた家電メーカーやバンカーはどれも危機的な状況に晒されている。

Babymetalはそういう日本の閉塞した状況に現れた新星だったのだ。臆することなく海外に出て行き、世界を征服するのだと宣言し、本当に世界中に名前を轟かせた。世界に出ていくチャンスは誰にでもある。しかし、多くの人々は、元々関心すらなくてその前を通り過ぎてしまうか、あるいは言葉や習慣の問題やリスクに対する恐れからそれに飛びつけないまま首をすくめてチャンスの方で通り過ぎるのを待つのだ。どこの国のどんな人にもあるチャンス、しかし全量には限りがある。はっきりしているのは、少なくとも大量消費を前提としたコンシューマー領域では、もう国内だけに止まっても、この収縮していく流れに呑み込まれないように闘う退却戦しか望めないことだ。

これ以上詳しくそれを説明する必要があるだろうか。東日本大震災後のあらゆることが、この国がすでに「三流国」に成り下がったことを示している。政治、経済、文化、すべてにおいて水準を下げ、くだらない状況をくだらないとも思わずにさらに拡大再生産し続けている。あるいはもうダメになってしまったシステムに気づきながらやり方を変えることができずに、まるで破滅にむかって進んでいくレミングのように危機の表面を糊塗して目を背け続けている。その上、世界から失笑を買いながら、さも一流国家であるかのように虚勢を張るような末期的な症状は至る所に拡がっている。現在の内閣はそんな日本の状況には誠にお似合いだと言わねばならない。こと、日本の芸能界だけが例外だとは僕には思えない。

水野さんが、日本固有の芸能界に敢えて戻ることを選択した姿には、名も知れぬ多数の日本人の姿が重なって見える。あなたの行く手には、誰も経験したことのない人生が待っていたのに、何でと、思ってしまうのを止められない。そんなことを思うのは、もちろん同じ間違いを自分自身がしてきているからなのかも知れない。長く海外に滞在した経験など何もないけれど、短期間の出張からも分かることはある。明治時代に漱石が英国で経験したことと僕が短期の出張で経験したことは比較にもならないけど、昭和の同時代に育ってきた日本の人々が背負っている困難くらいは想像がつく。しかしもちろん希望はないわけではない。日本にいて、小さな世界を大切にすることは、もし、ほんとうにそれを究極まで極められれば、それこそが世界に通じるもう一つの道、たった一つの可能性だ。なぜならグローバルの本質は、巨大なローカルだからだ。誰もが徹底してローカルであることで世界人として自立する以外に本当は「グローバルに活躍する人」になる方法などない。米国や欧州がグローバルなのではない。それらは巨大な地方というだけだ。実際のところ、Babymetal もそのようにして世界に見つけられた。水野さんの年代の若い人たちは、これからさらに沈没していく日本と拡張していく世界との激しい摩擦の時代を生きて行かざるをえない だろう。世界に出ていくにせよ、国内にとどまるにせよ、高度成長期をののほほんと大人になった我々の世代と比べたら圧倒的にきつい将来が待っていると思う。Babymetalを離れた水野さんに、輝かしい未来をと心から祈らざるを得ない。

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