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『「すべてを引き受ける」という思想』 吉本隆明・茂木健一郎

光文社 2012年6月

茂木さんが2006年に吉本さんと行なった対談の記録。初出の記載がない。まだ、語りを中心として吉本さんの著作が出続けていたころで、語りの内容も割合に濃い。茂木さんのやや素人っぽさを感じる質問がむしろ吉本さんの率直でわかりやすい反応を引き出しているところがあって、案外面白く読んだ。

特に注目した箇所に触れておく。

p.144
吉本 - 科学的な装置は権力化する

 科学の発達はちょっと止まりようがないからどこまでいくか、ぼくなんか、もうキリがなくいきそうな気がします。そうだとすると、古典的な知識では片づかない。
 ぼくはまた社会的なことと結びつけて考えるわけですが、昔は資本が剰余価値を生み出すから、資本家はそれを自分の利益として、働く人には部分的にしか与えなかった。それがもう少し発達すると、今度は国家が資本を独占して国家独占の資本主義になっていく。こういう言い方で済んできたけれども、いまはそういう考え方では済まないぞという感じがします。どういうことかといえば、何か権力的なものが介入してくると怪しげな方向にいってしまうということではなく、文化とか文明の発達に役立つような装置があれば、それをだれがどう使おうと、それ自体が権力なんだというふうに変わってきていると思うのです。そう考えたほうがいいのではないか。いや、そういうことを考えに入れなかったらダメじゃないかと思います。
 ただし、権力といっても、それは昔のような強権という意味ではなくて、要するに人が精神的にでも肉体的にでも外界に働きかければ外界が価値化してしまうから、人文系の文化であっても科学技術と結びつく場面があれば、必ずそれは権力化する。そのもの自体が権力になっていくということです。
 これを理想の状態だといって肯定するか、いや困りものだといって否定するか。いずれにしろ、それはもう善悪の問題、倫理の問題ではなく、文化自体が権力だとか、文化が科学技術と結びつくかぎり権力化すると考えるべきではないでしょうか。ここのところは用心のしどころです。
 だから、資本主義の科学技術だけがおかしいのかというと、それはそうではなくて、資本主義であれ社会主義であれ、科学技術の使い方自体が問題になっているのだというべきでしょう。いまのような使い方をしていると、自分では獲得したのが知識そのものであるかのように思っていても、じつはそうではなくて権力だったというふうになっていくはずです。

「外界に働きかければ外界が価値化してしまうから」云々の箇所はマルクス系統の思想になじんだことがない人には何を言っているのかわかりにくいかもしれない。マルクスの思想の中心には、人間が自然に働きかけることで自然を変え、そのことによって自らも変化させるという弁証法的な自然哲学がある。たとえば、電力について言えば、人間はタービンを発明して発電の原理を得た後、タービンを回転させる動力に様々な自然のエネルギーを利用してきた。石油の燃焼であったり、核分裂エネルギーであったり。これらは、自然にそのままおいていても人間にとって価値をもたらさないが、掘り出して加工し、タービンを回転させる熱エネルギーとして用いられることで電力という有益なエネルギー形態に変換され人間生活に様々な利益をもたらす。これは、自然を人間のために変更していると考えられる。つまり、外界を価値に転換しているわけだ。逆に、そのことによって人間社会には様々な変化が生じる。この価値創出の過程をたとえば、原子力発電に象徴させてみよう。原発を動かすためのシステム全体としてみれば、人間は、地球環境に働きかけてウランを取り出し濃縮核燃料として原発に適用することで、眠っていたエネルギーを価値化していることになる。この価値化が特殊な科学技術に依存する時、その知識を専有するものは、それ自体が権力たりえるのではないか、あるいはその技術と信じているものは、ただの権力の形態にすぎないのではないか?そのように吉本さんは言っていると思える。
 上に例としてあけだ原発を考えれば、その仕組をもつものが、あるいは、その仕組自体がどれだけ強固で動かしがたいパワーをもつ存在になっているかは、特に、原発反対運動にたずさわる者にとっては自明ではないか。それがあるのとないのとでは、人々の間における力関係がまったく異なってくるのだ。たとえば、第二次大戦の戦勝国は、これをまさにバワーとしてとらえたがために、争って核開発をしてきたわけだ。米露英仏は元より、中国、インドのような二十世紀半ばにおいては後進国に分類されていた国々ですら。原発はその流れに完全に位置づけられる技術であることは、これまで何回か書いたと思う。これに、エコ思想が結びつくことによるどろどろの権力闘争は、実はグリーンの美名の元に隠されて見えにくいわけだが、根拠に乏しいCO2による温暖化説にせよ、原発がCO2を出さないクリーンなエネルギーだというプロバガンダにせよ、それが旧来の権力(吉本さんが強権と言っている)と結びつくだけではなく、私企業や文化人すら巻き込んだミクロな次元での勢力争いを展開していることを考えれば、ここで言われていることの意味も少し想像がつくのではないだろうか。
 知は力なりという古い言葉もあるが、これは知識が自然を克服して人間社会を豊かにする力をもっていることに対する素朴な確信を述べたものだ。しかし、そうではなく、文字どおり知識をおさえていること、とくに科学技術と結びついた文化的な価値そのものが、それ自体、つまりその技術の適用とか普及に関して独占的な決定権を握るとかいうことだけではなく、ただそれが科学技術と結びついていることだけで権力たりうるのではないかと、吉本さんは言っている。人が権力を握るのではない。知識そのものが権力と同じ効果をもつのだ。安保闘争や学園紛争の時代は、敵は政治家だったり企業家だったりした。80年代の反核運動は、米国の戦略核が標的だった。しかし、今、われわれが目の当たりにしている反原発運動は、政治家や企業だけではなく、それらを理論的に支え官僚の後ろ盾となって個々の人々のちからが及ばない所で物事を進めようとする科学者、エンジニア、広告会社、コンサルタントなど、このシステムを成り立たせている文書を作成し法律を書き、アンケートをとってそれを分析し、すべてを相手にするようになっている。だからこそ、ツイッターで繰り広げられている論争をあまりなめないほうがいい。こうしたミクロな個と個のぶつかりあいは現実の闘争そのものだ。何も、電気会社や官邸前などで小競り合いしているのだけが闘争ではないし、大メディアにでる論文だけが戦いでもない。それは、すぐあなたのとなりに存在している。ツイッターは、あなたがもつ権力を可視化するし、それが知識と結びついたものであるのを否応なしに悟らせるだろう。
 ある面では、政府は敵ですらない。政府は本当はロボットで、原発をどうしても推進したい意志は別の所からやってきていることも、だいたい大衆には気付かれているといってよいのではないか。自民党が民主党になっても何も変わらなかったことから、多くの人々がこの国を支配するのが政治ではないことに気づき始めているのだ。とりわけ、原発においては。
 これは、3.11以来、僕自身が一番考えてきたことそのものだ。反原発デモに参加する気がしてこない一番の理由はそこにある。このできあがってしまって仕組を解体して、官僚が主体となって地獄へ進み続けているかのような自動運動を停止させ、真に人々が自らの将来を決定する権利を回復するために本当は何をなすべきなのか、まだ分からないのだ。吉本さんご自身が、原発の問題については、人間が原子の内部に到達し、そのエネルギーを解放した後にくる心もとなさから語るのみで、それを支えて動かしている推進力が何なのかについては案外素朴な認識しかもたれていなかったようなのは残念だが事実だと思う。吉本さんが心配していたような技術に対する反動は現実のものとなっているし、原子力技術者は原発廃止を唱えるものでなければ今はどこにでかけても針のむしろだろう。技術に対する無知を棚上げにして一方的に技術者を断罪するというような分かりやすい誤りではなく、それなりに勉強し知識も豊富な常識人が、技術者の不明を的確についてくるのだ。もちろん、いい加減な技術者など自滅して商売替えをしたらよいわけだが、技術そのものが悪なのではないこと、それが悪になる過程、権力化する過程がいかなるものであるかについての洞察を抜きにして、技術をもっているだけで、その適用についてあらゆる点で正しく判断していなかったといって技術者を責めるのはあまり有効な戦略ではない。技術者自身が自分の「権力」に無知であったら尚更である。つまり、それ自体が権利よくであるような知をどのように解体して、なかんずくそれを利用して一儲けしようといった連中の手から知を奪い返して権力としての知をコントロールしていくのか。というよりも、どのようなやり方でこのような状況に対峙していけばよいのかが、本当は問題なのだ。

 権力論と言えば、吉本さんは、フーコーについて、次のように語っている。

p180
 要するに、フーコーは歴史をぶっ通したかった(原文は傍点:注、以下同じ)のです。近代から現在までのぶっ通しは『言葉と物』でやっているけれども、それをさらにさかのぼってヨーロッパの源初からぶっ通すこと、そうしなければ現在の状況がこれからどうなっていくかわからない。フーコーはそう考えていたはずです。

P182
ヨーロッパの根源のところまで、つまりギリシャまでさかのぼらなければダメだと考えて、そうして亡くなる間際、パリ大学での特別講義でそれをやったのだと、ぼくは解釈しています。
 日本でぼくと同じように、状況論だけではダメだと考えて、うまく言葉を避けながらも始原へさかのぼろうとしているのが中沢新一さんだといえます。中沢さんは、マルクス主義者からは「反動」と呼ばれていますが、ぼくはそう思いません。

吉本さんとフーコーの対談は、マルクス主義から独立した世界認識の方法を論じたい吉本さんに対して、個別の歴史研究の重要さに関心が移っていることを強調するフーコーといった具合で、読んでいてもどかしいくらい対話がかみあわないように思えるのだが、そんなことはないと吉本さんは言う。ただ、別の本で、自分はフーコーと比較すると四回戦ボーイだと思ったと言われていたように、フーコーに対する敬意はみじんも変わらない。吉本さんによれば、フーコーの歴史研究は、単に歴史を調べ検証し記述することが目的なのではなく、ギリシャにまでさかのぼってヨーロッパを根底から問いなおすための仕事だった。『性の歴史』の第一巻には、それこそ権力論がある。その権力論は、そもそも中央集権的な強大な強制力というよりも、個々の人ひどの間に静かなさざなみのようにして広がる得体のしれないものだったはずだ。フーコーが描き出したのは権力の量子とも言うべきもので、結局のところ人間個人がもつ力が最終的には権力の起源であることが示唆されてはいても、それがどのように集合し国家を形成したり戦争に至りついたりするのかはよくわからないままだったのではないかと思う。権力とは何かという問いに答えるのはもちろん簡単ではない。国家が何かということと同様に、それらは起源ひとつとっても解決済の問題ではないのだ。というよりも、起源の中にこそ解くべき問題の鍵がある。別に国家論や権力論をやるためではないにしても、中沢新一さんの対称性人類学のアプローチは人間の歴史を「対称性の破れ」として捉える非常にユニークなものだと僕も思う。ヒッグス機構とのアナロジーだと思うが、この対称性の破れは、国家のような権力の登場するメカニズムとしても有望だと僕は思う。吉本さんが中沢さんを評価するのは理にかなっているのだ。

吉本さんの最晩年の仕事は『芸術言語論』だが、実際にはその覚書で止まっている。本書には、そのモチーフが簡単に述べられているが、その前のところで、言葉について、簡単に次のように述べている。

p.193
 要するに、言語というのはすべて「地域言語」にすぎない。世界性のある言語などというのはいまのままではありえない。はやっている言語もあれば、はやらない言語もあるし、未開地域の言語もある。風俗習慣によって言語は違ってしまうし、同じ人種だって違ってしまう。地方と都会では、方言と標準語で落差ができる。そういうものはみな地域性の問題、地域の風俗習慣の問題、それに基づく言語の違いの問題で、こうしたものが身体性の「内在史」と「外在史」の連繋項になっているわけですから、そうした媒介項のはたらきを考えに入れないとダメなのではないか。そういうふうに考えて、ぼくはいまいったような媒介項を「思想」と呼ぶようにしたのです。

この箇所を読んだとき、思わず心のなかでうなったのを白状する。やはりこの頃の著書で、『思想のアンソロジー』というのがある。収録されている日本の「思想」にまつわる古典の抜き書きを読んでも実は何が思想なのかよくわからなかったのだ。そういう意味だったのか、そんな「思想」の定義があるのか、と正直に言えば、晩年の吉本さんの作品を軽視していた自分が少々恥ずかしくなるぐらいである。この箇所をさきほどのフーコーの歴史認識に対する強調と合わせて考えよう。さらりと吉本さんが述べている思想の定義が実はこれまでにきいたことのない水準で立体化してくる気がしないだろうか。吉本さんは、ここで言語というのを別に日本語と限定しているわけではない。世界のあらゆる地域において、言葉はその地域性の内部に閉じて使用される宿命を負っている。人間が生まれて成長しおとなになり年老いていく過程で経験することどももまた、その地域に限定されざるをえない側面がある。あちらこちらを移動しながら生きているとしても、それがひとつの地域性としてくくられることが可能である程度には、言語は閉じている。そうした地域性は個人を個人たらしめる働きをもつが、逆に、地域自体を個人の制約を超えた所で成立させる独自の歴史を成立させるものでもある。すべての人は、言語や言語を通じた内在的な時間における個人史を外部に独立して存在する歴史的な地域性と関わりあわせながら社会をつくり変更し、活動していく存在である。その個と地域性に刻印された社会のそれぞれの進み方の矛盾点にある言語が思想なのだ。そうした媒介項がなければ、人は地域性につまりは世界に関係することができない。このような考え方をとれば、思想は思想家だけのものではなくなる。このことで、もうひとつ腑に落ちたのは、以前、柄谷さんが英語で論文を書くべきと述べたのを揶揄して書きたかったら書けばいいがそんなことには意味がないという批判をされていた根拠である。思想の言葉は、自分が夢のなかでもしゃべる言葉でしか吐くことができない、そのような関わり方でしか存在しえないというわけだ。

グローバリスムばやりの今日においても、吉本さんが指摘しているこの問題は本質的には変化していないと思う。これからしばらくの間はそうだろう。その後の遠い未来がどうなるのかは、多分誰にもわからない。しかし、少なくとも、現在においては、自分の属しているあるいは、自分に所属を迫るローカリティと戦わずに、思想と呼べるほどの言葉を吐くことはできないと、多分差し支えないのではないか。そうしたことをへずに世界性を獲得できるものなど本当は何ひとつないのではないか。そうしたことは、経験的には多くの人が理解していることだと思うのだが、その理由がこんなに明確に書かれているのを初めて書物で読んだ気がしている。