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『この世界の片隅に』 こうの史代 / 監督:片渕須直 : 加筆

先にコミックスを読んでから映画を見た。こうの史代さんは、鶴見さんが激賞していて、『夕凪の街 桜の国』を読んだことがあった。それでこうのさんの「戦争」に対する距離の取り方を少しは理解していたので、こうのさんの作品における徹底した戦争「無視」はある程度予想はついた。

この作品は戦争中を舞台にしているから、どうしても反戦に言及したくなる。しかし、ここにあるのは、戦争だろうがなんだろうが詳しいことはわからずにただいつものように毎日を過ごす人々の姿だ。反戦でも厭戦でも好戦でもない。そもそも、そんなものと関わりのない多くの市井の人々、そういう当たり前の世界を著者は描きたかった。まわりで起こっている大文字の出来事は確かに暮らしに大きな影響は与えるけれども、民衆にとって天災と同じでただやり過ごすほかにつきあいようもないものだ。少なくとも、それは主体的に向き合う何かではない。いつのまにどこからかやってきて生活の土台を根こそぎ変えるものだ。

そのことについて、こうのさんはいちどたりとも優先順位を間違えていない。多くの戦争を描く作品とこの作品を分けるのはそこだと思う。だから、何を着ていたか、何を食べていたか、何を感じていたか、戦争中に仕事はどんなだったのか、結婚式はどんなだったか、電車はどのように乗ったのか、料金はいくらだったのか、といったことが、ともかく大事だった。しかも、それは呉でなければならなかった。そのことによって戦争に反対するというよりも、「世界の片隅で」ひっそりと生きるものを瑞々しく描き、その価値を守ることで、戦争が起こっている世界と人々が暮らす世界との間に大きな乖離があることを目の当たりにさせる。そのどこか違う次元からやってくるものによって生活が壊されることの理不尽さは、もはや説明するまでもなくそこに鮮やかに浮かびあがるのだ。

この作品は、時代背景を江戸時代に移しても、現代に移しても同じように成り立つ。なぜこの時代に設定したのか背景は分からないが、動機ははっきりしている。戦争戦争わめくやつらを戦争を無視した作品により出し抜くことだ。しばしば、日本人は戦争被害者の顔はするけど加害者としての自覚をもっていないという批判を目にする。しかし、被害の観点が強調される理由ははっきりしている。加害者として戦争に加わったもののほとんどは死んでしまったか、生きていてもずっと口をつぐんできたからだ。ここに描かれた家族の姿をみたら一目瞭然で、そこには被害者しかいないではないか。

もちろん、憲兵らしき夫が戦争にどのように関与したのかは作品からは分からない。あるいは、そういう状況に導いていったのは、ここで描かれた当の民衆だったのではないかなどと言い出す大学の先生とかもきっといるだろうと思う。戦争に対して民衆が無罪であったというのはおかしいのではないかというように。しかし、ただ愛し合って暮らしていた夫婦が、戦争によって暮らしをめちゃくちゃにされたことは最近流行りの言葉でいえば、自己責任だということになるのだろうか。愛国婦人会みたいなものだとか、翼賛会のようなものに参加して積極的に戦争推進したとかいうのならともかく、ここで描かれている主人公の家族はただ毎日を静かに過ごしていただけだ。そうした人々が戦災で家を失い焼け出されたのは、米軍の犯罪的な無差別爆撃のせいであって、当人たちに落ち度があったわけではない。また、そのような非人道的な攻撃を招いた直接の責任は本土決戦のような決定をおこなった天皇と軍部にあるし軍部の独走を許した政治家にある。その政治家は市民の投票に基づく選挙で選ばれたかもしれないが、仮に民主的な手続きに基づいて選んだ政治家と政府が戦争を招来したとしたら、それは民衆の責任なのだろうか。原発事故についてまったく同じことを書いた記憶がある。この種の政治的な問題は、しばしば民衆にも責任があるとして片付けられがちだが、断じて間違っている。それが政治的な問題であるなら責任は、政治家と政府にある。民衆にあるのは、せいぜい政治家を選んで投票した責任だけだ。責任の取り方としても、次の選挙で別の候補者に投票することによる他ない。代議士をおかずに直接国民が制作を決定するのでもないかぎり、そんな責任とりようもないではないか。その程度には、我が国の民主主義は民主的ではないと考えるべきなのだ。

時々行われる選挙で感じのよさそうな政治家に投票し、あとはあまり政治のことも知らずに日々を暮らしていて、突然、戦争が襲いかかる。この非日常的な現実はどこからやってくるのか。この日常と戦争の非日常との裂け目は、なぜ、どのような仕組みにもとづいて生じるのかは戦後ずいぶんと議論されてきたのではないかと思う。しかし、我々は、はたして、その裂け目にどのように対処すればよいか、本当に学び終えたのだろうかと考えると、甚だ心許ないのである。

この作品の終結部、いわばクライマックスで、戦争で生活を破壊された主人公は、その戦争に対するうらみつらみをいっさい口にすることなく、再び家族の物語の中に戻っていく。このエンディングは、静かだが、作者の強烈なプロテストであると考えていい。選挙とも、戦争とも関係なく守られねばならないもの、それを守る決意を主人公はするのだが、戦争については、完全に無視なのだ。ちらとも戦争に対する反省だとか加害者意識だとか被害者意識だとか、そんなものは出てこない。ただ愛するものとの関係だけがすべてである。これは大文字の議論すべてに対する強烈な肘鉄である。大きな話ばかりしたがる政治家やマスメディア、言論人に対する徹底的な反抗だと思っていい。歴史上のできごととして教科書にのる戦争のような出来事と関係なく、「世界の片隅」で生きる。そのことに絶対的な価値を見出し、自分自身を確立する女性の物語と言ったら、作者には考えすぎと怒られてしまうかもしれない。しかし、最後の主人公の独白は、それまでのどちらかというとほんわりとしたぼけたキャラクターの若妻から一皮向けて、揺るがない価値を手にしたものの強い意志と清々しさを感じさせるものだ。僕たちは、『共同幻想論』からほぼ50年たって、ようやくあの裂け目に対するひとつの対処の仕方を本作の若い主人公から学ぶことができるのである。

アニメ作品はかなりヒットしているようだが、ほぼ原作に忠実に制作されており、物語そのものとしては原作の力がほとんどだと思う。アニメ作品は、単色で表現された原作では想像するほかない色彩を物語に与え、登場人物に声を与え、当時の街並みや呉軍港の姿を丁寧に再現し、爆撃のシーンには映画でしかできない強烈なリアリティを与え、物語全体を立体化した。初夜の挨拶シーンは率直に描かれていたが、子供たちも見ることを考えてか、遊郭だけは少し描写も抑え物語を端折る程度のアクセントの置き方で、原作者の作り上げたイメージを丁寧に保存している。見ていて、監督の作者と作品に対する尊敬、敬意をものすごく感じた。ある面では、これは監督から原作者への長大なお礼の手紙みたいなものだ。

さて、見てから読むか、読んでから見るかというのは、こういう時にこそつかうべきだ。それによって、映画の受け止め方は少し違ってくると思われるからだ。しかも、それはいちどだけの体験でどちらかの選択しかできない。僕は読んでから見てしまったが、逆だったらどうだったろう。

(2017/04/20,5/7(大幅) 加筆)