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『ペット・サウンズ』 ジム・フジーリ著 村上春樹 訳

ビーチ・ボーイズは、僕にとっては長らくサーフィン・サウンドのグループだった。丁度、丘サーファーなんて言葉がはやるくらいサーフィンが軽い文化の代表格のようになってた時代が青春期だったせいで僕にはサーフィン・カルチャーに対する偏見があり、その代表格みたいなビーチ・ボーイズを聞いてみようという気にならなかったというのもあると思う。僕がビーチ・ボーイズに関心を持ったのは、80年代の中頃で、多分、山下達郎さん経由だ。『ビッグ・ウェイブ』はよく聞いたし、ラジオで聞いたあの甘ったるい『ディズニー・ガール』をもう一度聞きたいと思ってレコードを探した記憶もある。でも、ベスト盤があればそれを優先して買う類のアーティストとしてだ。ある時、それは『ペット・サウンズ』を聞く前のことだけど、ビーチ・ボーイズにあるSomethingに突然気がついた。そのSomethingを言葉にするのは難しいのだが、それはサーフィン・カルチャーがそんな一時の流行のような薄っぺらなものではないのに気づいたのと同じ頃だったんじゃないだろうか。誰もがファッションとして軽いノリでとりいれて消費してしまうようなもの、それらのもつ軽さはある種の哀しみと裏腹の関係にある。その軽さ、人々の負担にならない軽さの中にある魅力、深さ、慎み深さ、いろいろな言い方が可能だと思うのだけれど、それは否定すべきものではなく、きちんと取り上げる価値のあるものだということに、少し年取ると気づくのだよね。ヒット・チャートの上位にくるチャラチャラしたサビのあるような曲はみんなにバカにされがちだけど、それは少なくとも誰の負担にもなることがない。確かに、時代の表層をかすめてすぐごみになってしまうものだって多いけど、それは批判されるようなことなのか?うまく言えないんだけど、ヒット・チャートの上位の曲の多くは、どれも傷ついているように僕には思える。しかも、根底から。ビーチ・ボーイズは、その哀しみをとても強く感じさせるグループだ。ビートルズは、それとは違った意味で聞くものを切なくさせる魅力をもっている。昔、財津和夫さんだと思ったけど、『ア・ハード・デイズ・ナイト』を見てぶっとんで、早速、真似して学校で放課後「アンド・アイ・ラブ・ハー」を歌ってたら、涙がこぼれたって書いてた。片岡義男さんも、ビートルズの歌詞の翻訳のあとがきで、やはりビートルズの「悲しみ」について触れていたと思う。僕は、それがどういうものかはよく分かる。でも、それがとこから来るのかは今でもよく分からない。でも、とても内面的なもので、言葉の壁をこえてそれをストレートに伝える力を持っていたのがビートルズというバンドだったと思ってはいる。ビーチ・ボーイズの漂わせている哀しみは、それとは違う。ビーチ・ボーイズの哀しみは、表面にはりついて当たり前のように消費される。モーツアルトを疾走する悲しみと小林秀雄が呼んだのと近いかもしれない。それは、サーフィン・サウンドの文脈にいて実に居心地悪そうにしている。特徴的なファルセットや軽いのりのビートのせいで、とことんハッピーな上辺と反対に、作曲者は屈折し、苦悩している。しかし、それをストレートに伝えることはしない。あくまで、ハッピーで美しい楽曲としてそれを作り上げようとしている。それらは、盛大に時代に消費されることで傷つき、さらに内面に沈み込む。だけど、音楽はその奥底に潜めているものも、いつか人に気付かせさずにはいない。ヒット・ソングになるほどの曲の多くは、そういったなにかをもっていて、人は無意識の内にそれを看取してシングル盤を手に取るのだ。ビーチ・ボーイズは、そうしたポップ・ソングのあり方と正面から向きあったバンドだと思う。ビートルズは、そういう単純なヒット・パレード向きの曲を量産する仕事の仕方は、アルバムで言うと、”Beatles for Sale”くらいまででやめてしまった。このタイトルはそう考えるとなかなか意味深である。そして、ビートルズはこのアルバムをひっさげてアメリカに上陸し、しばらくしてコンサート・ツアーをやめてしまうのだ。ビーチ・ボーイズの場合、コンサートをやめてしまったのはブライアン・ウィルソンだけだ。

本書にも出てくるように、ブライアンは、ビートルズがスタジオにこもって作り上げた記念碑的な作品、『ラバー・ソウル』にかなり刺激されて『ペット・サウンズ』に臨んだらしい。ビーチ・ボーイズの音楽的な支柱であるブライアン・ウィルソンは、メンバーがツアーに出ている間、スタジオ・ミュージシャンを使って、ヴォーカル以外は全部自分で仕上げてしまったという。キャッチーなサウンド、チャラチャラした見掛けは幾分影を潜めて、クラシカルでストレートな音楽を存分に作ってみたらこうなったというのが、『ペット・サウンズ』のようだ。初めて聞くと、いかにもビーチ・ボーイズっぽいヒット曲になりそうな曲は、「スループ・ジョンB」くらいだ。でも、どの曲も何回聞いても飽きない。このアルバムを聞くものは、何回か聞く内に、この音楽に「つかまる」。個々の曲ではなく、このアルバムにつかまるのだ。訳者である村上春樹さんは、スコット・フィツジェラルドとヘミングウェイの関係になぞらえて、今ではこのアルバムが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』よりも上に位置しているように感じていると書いているけど、その言わんとするところはよく分かる。このアルバムにつかまるというのは、そういうことなのだ。

本書の著者も、そうした一人だ。『ペット・サウンズ』だけというわけでもないけど、ほとんどそれだけを語って一冊つくるのだからビーチ・ボーイズに対するその思い入れは正真正銘だ。たとえば、ロックのオールタイム・ベストのような企画では、必ず『リヴォルバー』や『ラバー・ソウル』が顔を出すが、『ビーチ・ボーイズ・トゥデイ!』や『サマー・デイズ(アンド・サマー・ナイツ!!)』が顔を出すことはない。しかし、それらは少なくともビートルズ中期の優れたアルバムと同じくらい優れているのにと著者は嘆く。当のビートルズはそれを分かっていたというようなことを著者は書いている。実際、ビートルズがビーチ・ボーイズから刺激を受けていたらしいのはいろいろな所で読む。僕も、以前はそれがどういうことなのかよく分からなかった。具体的な技術的なことはわからないけど、今は、ともかくもビーチ・ボーイズの音楽が相当考えられて練りこまれたものであることは非常によく分かる。それは、曲のよさというだけではない、スタジオ・ワークの集大成なのだ。たとえば、”Good Vibrations”は、”A Day In The Life”のような圧倒的な展開こそないけど、例のルートをひかないメロディアスなベース、テルミンみたいなものだけ聞いていても、サウンド・プロダクションという観点でひけをとっているとは全然思えない。『ラバー・ソウル』のビートルズが気にしていたのは当然だろうという気がする。

高校生くらいまでと違って、今はアルバムのライナーノーツも読まなくなったし、音楽関係の書籍もそれほど熱中して読まなくなったので、曲の背景やレコーディングのエピソードなんかもよく知らないのだが、ビーチ・ボーイズを聴きだしたのはそういう聞き方になってからだから、このアルバムの演奏者がヴォーカルを除くとカリフォルニアのスタジオ・ミュージシャンばかりというのもこの本を読むまで知らなかった。本書では、そのあたりは演奏者の名前つきでよく説明されている。何度も聞いているのに、漠然と聞き流しているせいで気付かなかったりしているのだが、ここには実に多くの楽器の音が含まれている。結果があまりにも自然だから意識させられることがないだけだ。あ、チェロだなとか、あ、フレンチ・ホルンだ、という楽器の使い方をブライアンはしない。それらはひとつに融け合って、ひとつの世界を提示する。ある面では、イージー・リスニングのオーケストラに近いものがある。ヴォーカルですら、おそらくはそうした楽器のひとつとしてブライアン・ウィルソンという天才的な音楽家によってコントロールされつくしている。ビートルズもビーチ・ボーイズも基本的には、リードをとれるヴォーカリストが複数いるコーラス・グループでもある。ビートルズの音楽のベースは、コーラスとギター・アンサンブルだが、ビーチ・ボーイズはメンバーの楽器演奏にあまりこだわりがないように思える。たとえシンプルな楽器構成であっても、一種のオーケストレーションの妙味みたいなものがレコード上のビーチ・ボーイズの特徴のように思える。特に、『ペット・サウンズ』では、その「オーケストレーション」が全開にされている。だから、その分、ビートルズのようにバンド・メンバーのミックス・アップによるマジックを感じさせない面があるのだ。一聴して凡庸に感じるところがあるとそればそこが原因だと思う。ビートルズがハプニングを直感でコントロールして作品にしてしまう天才だとすれば、ブライアン・ウィルソンはハプニングを許さない天才だ。

「キャロライン・ノー」について書いている箇所を引用しよう。

 二人の愛をよみがえらせることはできないものだろうか、と彼は思う。彼女の素晴らしさが戻ってきて、二人がかつての関係を復活させることは可能なのだろうか?「いったん失われたものは、もう二度と元には戻らないのか(Could we ever bring them back once they have gone?)」。アルバム『ペット・サウンズ』に通底するこのthemの意味は、青春期の活気であり、ナイーブさであり、一途さであり、単純さである。ご存知のように、それらは成長するにつれて消えていくものだ。心は保護されなくてはならない、経験がそれをあなたに教える。

まるで、村上春樹のいくつかの作品みたいでしょ?本書は、最適な翻訳者を得たと思う。ある曲で使われているあの音は、実はバス・ハーモニカなのかとか、これ歌ってたのはブライアンじゃないのかとか、いくつか教えられるところもある。ファンは必読だと思うが、聞いたことのない人は『ペット・サウンズ』を聞いてから読もう。何も考えずに音楽を受け入れるということは貴重だ。

ところで、そもそも、ペット・サウンズとは何か。アルバム・ジャケットは、やぎと戯れるバンドのメンバーである。え?やぎってペットしゃないよな、と。このあまりにも適当なネーミングは、そもそもこのアルバムがそういうコンセプトとかとは無縁のものだということを表していると思う。そもそも、ビーチ・ボーイズのアルバムは適当なタイトルのものが多い。前述の『ラバー・ソウル』や『リヴォルバー』と比べても見劣りしないと言われているアルバムのタイトルの適当さを思い出そう。少なくとも、タイトルは相当見劣りする。おそらく、会社のつけたタイトルだろう。彼らは、そういうレコード会社と仕事をしていたのだ。今では当たり前のように思われているビートルズのアルバム中心の作品づくりは、それだけ本当の先端にいて、ビーチ・ボーイズは少なくとも、そのムーブメントにアルバムの中身ではおいつき、おいこしかけていた。アルバムのパッケージがおいついていないことが、当時のキャピトルがこのアルバムに感じていた違和感やその扱いを如実に示していると思う。しかし、このアルバムは、たとえば、”Rolling Stone”誌の、500 Greatest Albumsでは、2位である。1位は、SGT. Pepper’s.. 聞いてない人は、それだけ損をしていると思えるアルバムのひとつなのは間違いない。結局のところ、この本が言っているのはそういうことだ。ともかく、いいんだから一度聞いてみてよ、と。訳者あとがきで村上さんまでそう書いている。僕はといえば、そもそもSGT. Pepper’s..は、ポールの平均レベルの曲がアルバムの価値をやや下げちゃってる気がしているので、その音楽のとてつもないクリアさ加減には驚くものの、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レーン」をシングルで出さずに、こっちに入れてくれれば文句なしだったのにと思っている。