さて、人的リソースである。これまでに何度か、原子力関係のヒューマン・プラットフォームの脆弱性について指摘した。これは、若干天に唾する言葉だった。僕の知る限りで、IT業界でも、製造業でも、金融機関などでもこの種の人的リソースの課題は大なり小なり存在している。教育の問題を言う人も多いと思うが、問題は学校教育だけにとどまらない。僕達は、学校を出ると企業で社会人教育を受ける。余裕のある企業なら、入社当初は研修しかしないだろうし、そうでなくとも先輩について一から学んでいくだろう。現在、普通の学校ではこの種の社会人向け教育は何もしていないはずだから。少なくとも、二十数年前までに学校教育を終えた僕にはそういう記憶はない。子供たちは勉強だけしていれば、あまり文句も言われず、多少のわがままくらいなら通るような状況で育って、社会に出ていく。そこで目にするのは、学校で習ったことなどほとんど役には立たない現実である。もう少し早熟な子なら、予めそういう見通しの元に学校時代をどう過ごすか考えて授業の取捨をしてきたかもしれない。例のゆとり教育で育った青年たちは平均的に言えば、知識よりは基礎力のようなものを大事に教育を受けてきているはずだが、結果は出ていないようである。つまり、社会は「本の」上での勉強は余計なことまでやっているくらいなのに、現実には英語ひとつ使い物になっていない青年を前にして、一から教育をしなければならないわけだ。恐らく、この状況は、僕が社会人になったころからそう変わっていないのではないかと思う。
将来を担う若者をどう育てていったらいいのかみたいなことについてまで議論を広げるつもりはないのだが、人的リソースのことを考えるときにはまずこのことをおさえておく必要があると思う。つまり、公的な教育を通じて目標とされているのは何かということと、大学や専門学校などで目標とされているのは何かということを。小学校と中学校を市立、高校と大学を公立にお世話になった僕の小中学校教育についての感想は、これは官僚養成教育だな、というものだ。中3か高1の頃、そんなことを日記に書いた覚えがある。つまり、各教科ともまんべんなくよくできて、クラブ活動や学校行事にも真面目に取り組み、品行もよく、みたいな究極の像を描くと、国家公務員しか浮かばなかったからだ。国家公務員、即ち、国を切り盛りする事務職員をヒエラルキーの頂点として、苦手な分野があることによる得意分野の偏り具合に従って各職業分野に流れていくそのような体系に気づいたのだ。結局のところ、言われたとおりにやっていれば、そして、国の期待に答えられたなら、彼は中央官庁に入っていくだろう。もちろん、優秀な人間が必ず官庁マンになるわけではなく、事業家になる人間も学者になる人間も弁護士やスポーツ選手になるのもいるだろうが、つまり、そうした様々な職業につくための教育は官僚になるための基礎教育で兼ねられるという基本的な発想があるはずなのだ。なぜ、五教科七科目でなければならないか。いずれも、政府が必要とする知のベースになるからだ。そうした人材養成のコンセプトが明治以来の教育制度の設計の原点なのではないか。ゆとり教育は、これに対する反旗だったと僕は理解している。批判も多いが、官僚養成システムからの脱却という意味では画期的な方向転換だったと言ってよい面があったはずなのだ。
『呪の思想』の書評で、そのような考え方について知ったが、わが国でも全く同じことが言える。つまり、この国で重視されるのは、文官、すなわち文章が作れる人なのだ。神=上との交流を司る文書を操る人々が支配の頂点に群がっており、そこから外れるほど自由業と呼ばれる人々に近づく図式になっている。これは、偶然ではなく、国家の設計として組み込まれていると見るべきだと思う。あらゆる業種で、技術系の方が給料が抑えられていたり、インセンティブが無かったりするのは、このようなところにも原因があるように思う。この暗黙の階級制度は、朝廷政治の頃から連綿と続き、江戸時代の士農工商を経て明治政府で近代的な解釈で置き換えられたとはいえ、基本的には変わっていない。つまり、官農工商だ。かつては階級を意味したかもしれないが、明治以降は政府への依存性の高い順番になっている。農家、土建屋などの仕事の成り立ちを考えれば、このあたりは明白だと思う。そして、その構造にのっかる形で政治の勢力図も形作られてきた。すなわち、上の方から下に向けて手厚くしていくわけだ。商の底辺にいる層が浮動票をもつ層に対応するわけだが、いまだに政党はそこに対しての訴求方法を知らぬままに、上三層と商の上の方で勝負しているといっていいと思う。選挙の時の投票率がそれを物語っている。別に、若者が政治離れしているので投票率が低いのではない。政党が相手にできていない層からそっぽを向かれているだけのことだ。しかし、そういう状況がいかにだめだったかは、はからずも民主党が今回の震災で明らかにしてくれた。もう、浮動票の層にいる人々は、もう政党政治を信用しないだろう。大連立などになればなおさらだ。私の覚えている限りで、この問題にわずかながらも気づいて総裁選挙で直接アピールしていたのは、小沢一郎ぐらいじゃなかったかと思う。逆切れしている現菅総理も実は、後ろ向きにその層に接し始めている。既成政党がやっきになって菅総理を退陣させようとしているのには、こうした背景もあるに違いない。無意識に、菅総理が従来からの政党支持層が支えてきた「階級制度」をずたずたにしてしまう危機感を抱いているのだ。「上」と交流できる文章をあやつれる文官が仕切る日本社会という像は、今、訳のわからない与太者に滅茶苦茶にされかけている、これが菅総理をやめさせたい大部分の政治家の思いなのではないかと思うが、それはかならずしも根本的な事態の好転を望んでのことだとは言えない。
原子力発電は、危険度が高く、国が手を出さざるをえない事業である。そこで、この「文官」(現実には技官かもしれないが)達が登場する。自分らの行政の都合で場合によっては、自然科学的な真実や技術的な妥当性をねじ曲げてさえ官のストーリーを守り続けてきたこともあったに違いない。情報の自由な流通を妨げ、危険性や事故について自分達で作ったカーテンの内から出さず、住民を危険にさらす結果を招いている。国がやれば大丈夫と、もしかするとこうした国の人間も思ったのかもしれないが、オープンに情報が共有されない環境では、やはり無理なのだ。閉鎖的な環境が進歩を止め、人間を腐らせて体制を機能不全に陥れることは、かつての社会主義国が証明してくれている。
「日本はプラントを組み上げる力が足りない、といわれるが、筆者は個人個人の力もさることながら、体制に問題があると思っている。誰も責任を取らなくてよいようにする。そのために誰にも絶対的な権限を与えない。うまくいったときも失敗したときも、仲良く手柄とか責任を分配する。これでは初めての大規模で複雑なプラントを統制とって、隙間のない高性能なものに仕上げるのは不可能に近い。例えばどこかの部分で何か変更したとき、他の部分でどのような影響が出るか考えることもできないからである。
原子力の分野はちゃんとやっている、というわけではない。京大炉(KUR)のような小さなものでも実質は分割発注となった。嫌われるのを覚悟で徹底的に指図したので、建設中はいろいろと文句が出たが、何とかまとめることができた。」
後で考える全体設計に対する責任の問題とも関連するのだが、この種のプロジェクトで権限を分割して移譲したときには、それを束ねる権限が必要だ。システム全体のアーキテクチャや概念、理念といったものが合っていないと、低レベルなところでは各コンポーネント間のインタフェースが整合しないとか、品質に差があってそのままでは結合できないとかいった問題がおこる。原発事故の際のパイプの接続や電源設備の仕様が合わないとかいった問題を思い起こしてみよう。これらの問題は、実に自明なのだが、実施体制の問題をそのまま示している。分割して発注したら、誰かがとりまとめなければいけない。単純な話だがしばしば忘れられる。これは書かれているように日本全体を覆う大きな問題である。責任を分担するのは構わない。アーキテクチャ設計を行ってコンポーネントやサブ・システムを定義して、これらごとに発注するのもかまわないのだが、ばらばらに開発したものを組み立てるインテグレーションが強力なリーダシップの元、明確な責任と権限の元に行なわれないと、全体システムとしては必ず問題を含むことになるのだ。銀行の合併時のシステム統合で起こった問題を思い出してもいいかもしれない。個別の原因は、様々に分析されているだろうが、根本的な問題は統合するシステム全体に渡るアーキテクチャを知り尽くして、統合に責任をもつリード・エンジニアが恐らくは不在であったことだ。
では、このような責任の重たい仕事をまかせられる人材は、果たして十分に育っているのだろうか。
「必要な人材の養成には実物による実験、実習が必要なことは古今東西を問わず、あらゆる分野でいわれている。社会的問題にもなる原子炉では特に、幼稚・初歩的なミスはできる限り防がねばならない。そのためには、実物による教育訓練で、特別に必要な考え方などを体得させる必要がある。」
「JCO事故はこういうのどかな気分を一掃する深刻なものであった。殆ど教育訓練を受けていない素人ばかりの集団が非常に大きな危険をはらんでいる仕事をしていることが明らかになったのである。「偶然」とは言わせない。事故後の種々の議論や措置が、何よりの証明である。専門家が評論家の発言の合間に恐る恐る言葉を挟むことしかできないようでは将来が心配である。」
「難しい数学や物理学の問題ではなく、事柄は簡単で、どちらかといえば容易である。しかし一度もやったことがなくて、本だけ読んだ人が間違いなくやれるか、は甚だ疑問なのである。今の日本で、私のこういう意見に賛成しない人達は多い。本を読み、物は購入して説明書を読んで、その通りにやれば十分と考えている人達である。」
「規制や組織を如何に工夫しても(前述の筆者らの案を含めて)、結局は人間が問題であり、前述の社会的理解を主な目的にした考えだけでなく実際に仕事をする専門家の実際的な教育訓練の充実を考えなければならない、と痛感した。」
原子炉を運転することについての基礎的な訓練が不足していることを嘆いている箇所を抜き出してみた。基礎的な訓練が不足しているなら、アドバンストな訓練など何もなされていないと言って構わないのではないかといいたくなる。これは、手順設計や運用設計というものが、人間の関与によってはじめて成立する技術分野であることを知らないか、忘れていることの表れだとみていい。設計は、とくに運用や操作というものに対しては、それだけでは何も担保しない。システムを理解し、その運用や操作に習熟した運用者がいて初めて設計の目標である安全な運用などというものが成立するのだ。それらのピースを欠いたまま運転を開始してしまうのは、無免許運転のようなものである。本当は、そのシステムの運転に求められる要員のスキルや性格や経験などを規定し、必要な訓練を行った上で本番の運転業務に就任させるべきものだ。そこまでを考えなければ、こうした危険きわまりない大規模システムの開発というものは終わらないと考えるべきだと僕は思う。NASAの宇宙飛行士は、地上にいるときに様々な訓練設備を用いて徹底的に訓練をつんでいる。原子力発電所の所員がすべてそのような訓練を必要とするとは思えないが、実機での研修抜きに本番に臨んでも大丈夫なレベルの簡単なシステムだとは僕には思えない。
ただ、柴田さんは教育者なので、その視点から教育設備の充実を強調されているのだが、実際には各プラントは既に動いており、最初の頃はともかく、今現在ではみんながみんな素人というわけではあるまい。必ず、中核には原子力のプロが育ち、運用のコアにいるはずだ。仕事で携われば嫌でも経験するわけだから。恐らく、問題はそのようなプラントに関われる人間は極少数で、学者や国の原子力関係の官僚は、何も実地の経験を積まないままに、原子力界隈を支配しているという点にあるのではないか。
さらに問題なのは、「全体を見る人」の育成である。全体を見るということは、全ての技術要素について知り尽くしているということでは必ずしもない。それは、通常は、人間の能力を超える。しかし、そのシステムの動脈や静脈を知り尽くし、制御に係る系統、道具などほとんどの事項について熟知し、知らない所はどこで、そこを知っている人間は誰なのかを完全に知って置くことは、絶対に必要だ。開発時点では、アーキテクトやPM がそれを担う。柴田さんが言っているのは、運用時にそれを誰がやるかだ。想像するに、さしたる訓練も受けないままに、メーカーが用意した手順書どおりに動かすのを運用と言っていて、それで問題がおこらないとされている事態に警告を発しているのだと僕は理解している。もちろん、それは運用のひとつの要素だが、それで全体を見るということはできない。設計、開発時点から関与し、自分の意見も出してシステムの全体像をつかんでいるものが、運用開始後の事故や不具合(それらは必ずある)、エンジニアリング上の変更などを熟知して、システムの性格をつかみ、手順を改良し、メーカーとの交渉に慣れ、運用要員の動きを統率し、システム全体を、維持していくための手足を常時整えている状態を作り出さなければならない。設計、開発以上に人との関係性が重要になるため、はっきりした方法論があるわけではない。しかし、それができる人がリーダーの場所にいなければ、事故の時の対応などとても円滑にいくものではないのだ。これは、どんなシステムにも限らないと思う。
Apollo13の事故の時にも活躍した伝説のフライト・ディレクター、ジーン・クランツは、運用管制業務の10 箇条というのを残している。次のようなものだ。
- Be Proactive
- Take Responsibility
- Play Flat-out
- Ask Questions
- Test and Validate All Assumption
- Write It Down
- Don’t Hide Mistakes
- Know Your System Thoroughly
- Think Ahead
- Respect Your Teammates
とくに、8に注目してもらいたい。システムのことは完全に知っておけ、と言われている。ここでいう管制業務とは、運用管制である。原子力発電の運用は、これと何か条件が違うのだろうか。もちろん、そんなことはない。
知るために、柴田さんが強調されているような実地の訓練はもちろん重要だと思う。しかし、本当は、それだけでない幅広い経験が必要だ。そうした人材の育成は、僕が経験して知っているITシステムの分野でも、システムの設計や開発についてはともかく、運用面については体系だてて行なわれているのは見たことがない。運用技術とは何かという定義すらはっきりと理解されてはいないのではないか。しかし、考えても見よう。開発にたとえば10年かかったとしても、プラントは40 年使っているわけだ。運用技術は、その40年に関係する一番基盤に関係しているのに、なぜ弱いのだろうか。運用技術の軽視はどこから始まっているのか。完全に憶測で暴言だが、それは、国内の大メーカーがみんな開発を仕事としているからではないか。運用は、下請けでまかなわれているか、地方の子会社や、地場の会社が担っているから、予算的にも主張が弱く、官僚も重視しないという構造ではないかと思う。いや、暴論なので読み捨ててもらえばいいのだが、運用に金を出し渋る体質は明確にあるし、それを嫌う大メーカーが参入しないため、小さな企業が隙間を埋めるように参加して何とか維持しているというのが、実態なのではないだろうか。どの分野においても見られる現象なのでそんなに外れた推測とは思わないのだが。大メーカーが運用を軽視するのは、長期間の固定的な世界での業務が必要になるため、エンジニアの技術力が(開発に関する)伸びないということと、人材が中心のビジネスなので儲けが少ないというところにつきるのではないか。
そんなわけで、日本の大規模システムを支えている中小企業は沢山ある。福島原発でも、現場にいる大半の人はそういう人々であり、最近よく知られるようになったとおり、下請けの下請けの下請けのような人々なわけだ。人材育成など、いったいどこにあるのか?