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『文章心得帖』 鶴見俊輔

昨年ちくま学芸文庫から出ているが、出版は1980年。

文章読本の類いは、高校生くらいの時に中公文庫にあった谷崎潤一郎のを読んだきりで、三島由起夫とか丸谷才一とかあるのは知っていたが読む気がしなかった。本書も鶴見さんにこんなものがあるんだと思ったから手に取ったものの、別に文章の書き方について教わろうと思ったわけでもない。

しかし、読んでみて文章の書き方についてずいぶん反省させられた。いくつか箇条書きで。

  1. 「文章を書く上で大事なことは、まず、余計なことをいわない、ということ。次に、紋切型の言葉をつきくずすことだと思う。」(15ページ)
  2. 「紋切型の言葉に乗ってスイスイ物を言わないこと。つまり、他人の声をもってしゃべるんじゃなくて、自分の肉声で普通にしゃべるように文章を書くことです。」(18ページ)
  3. 「普通の光らない言葉、みんなの共通語を主に使って、これというところについては、その普通の言葉を自分流に新しく使うこと。それが自分の状況にかなう言葉なんですね。」(18ページ)
  4. 「明晰さというのは、はっきりしているということ。そこで使われている言葉を、それはどういう意味か、と問われたら、すぐに説明できるということです。・・・(略)・・・自分で定義できない言葉を使うのはぐあいが悪い。」(20ページ)
  5. 「読者としての自分というのは重要であって、文章はまず自分にとって大事なんです。文章を書いているうちにどんどんはずみがついてきて、物事が自分にとってはっきり見えてくる。そういう場合に、少なくとも自分にとっては、いい文章を書いていることになる。」(22ページ)
  6. 「ここで格闘すべきなのであって、家へ帰れば鉄砲があるから、それをもってきて撃つ、というのでは殺されてしまう。」(24ページ)
  7. 「そのとき、読者とそれをとりまく人に、なかなかうまく伝わらずに、何か残ってしまう。そうすると、それはまた振り出しに戻る。こうやって無限の循環をする。それが表現というものなんです。完全に伝わるということはない。」(25ページ)
  8. 「言葉をもつということは、外側の社会がわれわれのなかに入り込んできたことで、内面化された会話です。他人とのやりとりが内面化されて、自分一人でそれをもういっぺん演じている。」(26ページ)
  9. 実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方をつくる。」(26ページ)

    
谷沢永一の「けなす」書評が数行でその本の本質を的確にとらえていることを示して、次のように言っている。

 「谷沢永一氏の引用してい内藤湖南の言葉、「其の書の特質を標出すること」。それが最低限のことなんです。それができなければ書評としてアウトです。(34ページ)

鶴見さんが文章がうまいと思う人が何人かあげられている。花田清輝、竹内好、梅棹忠夫、山田慶児、多田道太郎。実は、これらの昭和の文学者や学者の著作を、自分でも理由はわからないまま、以前は敬して遠ざけていたようなところあって、僕はほとんど読んでいない。最近になってそうした食わず嫌いは少し改善されたものの、そういったわけで、鶴見さんがいいといっているのがどういうことなのかは実はよく僕にはわからない。京大関係者が多いのは偶然でしょうけど。

鶴見さんの本は、ともかくその厳しくも公平な視線にいつも癒されるものがある。最近使われすぎて単語としては、少しいやな感じのする「癒される」は、こういう場合にこそ使おう。書かれていることは、割合に自分の考えかたとも重なるし、文章の組み立てや発想についてのコメントも特に新たな驚きがあるようなものではなかったけれど、余計なことは言わないというあたりは、なかなか反省させられるところ。

読んでいて日曜のカルチャー教室で、鶴見さんから直接教えを受けているようなリラックスした感じがあって、なかなか楽しめた。まとめれば、紋切り型を避けて自分の言葉で語れ、誠実であれ、ということですかね。小論文の苦手な学生、生徒のみなさんにも勧めますよ。