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『免疫の意味論』 多田富雄

青土社 1993

この本が書かれたのは、もう二十年近く前である。免疫学をめぐる状況も大分様変わりしているに違いない。AIDSについても一章が割かれているが、日本の患者数などもだいぶ変わってきているのではないか。いちいち変化した点を確認していくのもおっくうなので、青土社で注釈を入れて増補版を出してくれるとよいのだが。

「自己」というのは、「自己」の行為そのものであって、「自己」という固定したものではないことになる。[文中、「行為」と「もの」に傍点 -- 大塚]

本書の終わりの方に出てくるこの文が一応の結論と言ってよいだろうか。しかし、この本の価値は、この気づきよりも、そこに至る免疫学からの自己論へのアプローチ自体にある。私の場合、『生命の意味論』から読んだために、この結論が随分手前におかれた到達点にどうしても見えてしまうということもあるかもしれないけど。

もっとも、その時間の流れに抗してこの本が主張している自己論は重要さを増してきていると感じている。「自己は、自己として行為するものである」という規定は、岩井克人の「貨幣は、貨幣として使われるもの」という規定と呼応している。そして、この岩井の規定が書かれた『貨幣論』の出版が同じ1993年なのだ。これは、偶然ではない。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』あたりから自己言及についてはあれこれ言われだしたように記憶しているのだけど、90年代のサイエンスが解こうとしていた領域は、まるでトートロジーとしか思えない一見身もふたもないような概念が中心にいる世界であって、わずかな差異から出てくるちょっとした事が語れれば、戯れだのどうのともてはやされるようなところもあって、そうでなくとも、そそのあたりの問題が解けないと先に進めないという認識は多くの人に共通していたようで、それなりに先端を走っていた人は、自分の責務としてみんなこの自己を規定する自己みたいな所にはまりこんでいたのだ。生命科学の領域では、特に人間の存在に関する疑問を抜きに語れないところが大きい訳で、学者としてできなかった考察を退官後まとめているなんて例は意外と多い。自己組織化の理論について書かれた書物がベストセラーになったりするだけの背景は十分にあったのだ。

これは、長年サイエンスが採用してきた還元主義的なアプローチに否応無しに、方法論的な限界が見えてきていたことと関係している。発見される現象も、コアなものほど、公式的な理解を拒む所があり、様々な事象を統一的に理解するためには、次の原理、次の方法論を探さないとどうしようもないという事態の立ち至っていた。物理であれ、化学であれ、生命科学であれ、経済学であれ、社会科学であれ、宇宙論であれ、だ。私の観測では、この壁はまだ超えられていない。個々に優れた試みもあるのだが、潮流として成長しているものは一つもない。ほとんどが、論者の個人的な哲学の披露のような形で語られていて、サイエンスのメインストリートである論文誌でまともに語られる題材となっていないのだ。理由ははっきりしていると思う。業績として評価されないからだ。還元主義的な科学のお作法では、テクニカルな追求の外に居る哲学などは問題にもならないからだ。

したがって、多田さんのように、現役を引退しないと哲学は語れない。技能的に哲学を語る技術がないわけではない。論文数で成果をはかられるような時代では、プロの研究者としてはそもそも受け付けられない論文を書く訳にもいかない、というところなのではないかと全くアカデミズムと無縁の私は想像している。

ところで、自己言及の問題である。いつかまとめて書こうと思っているのだが、例として貨幣について考える。
貨幣の本質は、交換にある。私なら、貨幣とは、商品と交換されるものと定義する。それが貨幣の本質であって、商品が何かが決まれば貨幣も決まるという決まり方をするものであるということが、貨幣の交換における本質であることを強調する。つまり、貨幣は、必ず、商品とは逆の方向に流れるという大変著しい特徴を持っているのだ。そのことが重要なのであって(もしかするとここでの交換とは贈与と逆贈与をいっしょくたに述べているだけで、本当は二つの過程が合わさってできたものではないかという視点についてはとりあえず、おいておくとして)、貯蔵手段だとか、交換手段だとか、計算手段だとかいう属性をいくら並べ立てても貨幣を規定することはできない。それは、商品と交換される。そして、そのことによって自らを貨幣であると証すことができる。そのようなものを貨幣と私たちは呼んでいるのであって、貨幣が持つと言われている属性によって貨幣を識別しているわけではないのだ。この本質的な過程について触れずに貨幣を規定しようとするので、つまり、これらの一連の本質の頭と尻尾をつなぐから、貨幣は貨幣として使われるものだ、などという阿呆みたいな規定をしてしまう。これは、世界が基本的に永遠に作られつつある過程にあることを忘れて、固定的な、スタティックな世界観にとらわれているところからくるのだと思う。(岩井克人さんの本からは随分啓発されているのだが、この貨幣についての定義は今ひとつ納得できないままだった。)

自分が自分であることは、自分として行為することを通じて確立する事実であって、初めから自分という抽象的なものが存在するのではない。これは、自分というものが、ひとつの表現であることを意味している。貨幣は貨幣として振る舞う事で貨幣となる。それはトートロジーなのではなく、貨幣もまた表現の過程をもっていてその過程を経る事ではじめて貨幣となることを証拠立てているだけなのだ。自己言及にまつわる不可思議さは、ダイナミズムの存在を抜きにして過程を語る所からくる矛盾に由来している。それは、「動き」として理解すれば元来は何の問題にもならない概念なのである。

多田さんは、スーパーシステムを考えた時に、じつはこのダイナミズムに肉薄していた。自己とは、自己として行為するものというのは、静的な規定を自己に与える事を諦めて、動的な説明を与える他無い事に気づいたことを示唆している。自己は自己として作られる事によって自己である。そのことによって、非自己が同時に生み出される。これら双方の過程が弁証法的に統合されているのが自己という過程なのだと言っても別に構わないのだが、弁証法についてはまた機会を改めよう。

今、番外編とも見る事のできる、養老孟司、中村桂子、多田富雄の鼎談をおさめた『「私」はなぜ存在するか 脳・免疫・ゲノム』を読んでいる。さすがだ。これについてはまた。